雨降って地固まりたい

発達障害児を子育てしている中で感じていることや日々の生活について書いていきます。

長男が発達障害と診断されるまで  生後7ヶ月まで②-2

こんにちは!

アンブレラです。

 

前回の続き。

長男6ヶ月のときに起きた「東日本大震災」のときのことを主に書いていきます。

震災を思い出して辛くなってしまう方はお読みにならずスルーしていただければ幸いです。

 

 

何度も起こる余震の恐怖と息子の下痢のこともあり、帰省して母の顔を見るなりホッとしました。

次男が6ヶ月になるまで実家は横浜にあり、帰省しやすかったので助かってました。

現在は父の退職を機に札幌へ移住したのでなかなか会えないのですけどね・・

 

帰省した翌日は私の誕生日でした。もちろん夫からは連絡はありません。

イライラしていましたが、被災された方を思うと私が悩んでること自体ちっぽけ過ぎて申し訳ない気持ちになってきます。

兄夫婦は仙台に住んでおり、そのことも心配でした。

 

少し経った頃、原発事故の影響で千葉の自宅付近の浄水場で「セシウム」が検出されたと聞きました。

長男は完全ミルクで育てていましたので、一大事でした。

横浜も安全と言い切れないところもあったので、しばらくはペットボトルの水に頼ることにしました。

幸い、実家のご近所さん(母の友人の輪が広い)のお力も得て水の確保には困らなかったです。本当にありがたかった・・

けれど、

「あー、母乳だったらこんな心配しなくてもいいのにな・・」

震災の夜にママ友の家へ持てるだけの粉ミルクとお湯を持って避難したときも、実家に帰省したときも、水の心配があったときも、こんな後悔の念に駆られるのでした。

 

息子は相変わらず夜泣きがひどかったです。

泣く→ミルクを飲ませる→下痢→オムツを替える→立ちながら抱っこしてひたすら落ち着かせようとする

この工程を一晩に何回繰り返したか・・

当時、現役で働いてる両親を起こしてはいけないと夜中に必死で泣き止ませるのは孤独で、小さな音でテレビをつけて気持ちを紛らわせていました。

あの時ずっと流れていたACのCMは忘れられません・・

 

 

 

一ヶ月経った頃、仙台で避難所生活をしていた兄夫婦は実家でしばらく過ごすことになりました。

義姉のお母さんは津波で行方不明になっている話も聞いていたので、とても心が痛みました。気丈にふるまっていたので余計に。

 

家出して、夫とその後どうなったかというと・・

私たち夫婦は結婚前から何かとケンカが絶えず、今回帰省したのをきっかけに離婚をしようと考えていました。

ですが震災を経験し、家族のあり方や自分の置かれた状況を考え話し合い、離婚せず自宅に戻ることを決めました。

兄夫婦が戻ってきて実家に居づらくなってきたのもありますが^^;

 

離婚せず頑張ってきてよかったと心から思っています。

相変わらずケンカ多めの私たちですが、今の私にとって夫は子育ての絶対的なパートナーであり、母である私の辛さや大変さを一番にわかってくれる大きな支えとなっています。

まぁ、浮気もしますし価値観もまったく違うので夫(異性のパートナー)としては機能していないですがね・・・(チーン)

けれど、子供の良きパパですし頑張っているのでそれで十分です!

 

健常児でも障がい児でも育児の苦悩を精神的に共有してくれる人がいるってとても心強いですよね。

最近になるまで両親や夫にも共感してもらえないと思っていたので、とても辛い時期がありました。

大学で心理学を勉強しようと思ったのもそんな想いからでした。

 

 

 

話は戻りますが

息子の下痢は完治するまでに二週間ほどかかりました。

離乳食もその影響で予定より遅れ6ヶ月後半より開始しました。

 離乳食はバンボ(↓参照)に座らせて食べさせていました。 

周りの赤ちゃんは身体的にも成長が早い子が多かったこともありますが、比較すると長男は7ヶ月から「ずりばい」をして立とうとしている割にはお座りが遅いな、という印象でした。

 

長くなりましたが、、

改めて被災された方へお見舞いと亡くなられた方へのご冥福をお祈りいたします。

この震災を私も生涯忘れることはないでしょう。

それとともに無事日常を送れていることを日々感謝しながら生きていきたいとブログを書きながら思いました。

 

本日もお読みいただきありがとうございました。